日常食卓

食卓で交わされる会話のネタみたいな取るに足らないブログ

母性

小学生のころ、人の言う反抗期というものが人並みに訪れた。

そのとき、私は学校に行きたくないとかなりゴネていたようにおもう。

学校側に、教師に問題があったことが主な原因だったし、今ではそれはおかしいとわかる教師だったのだが、母に学校で起きた辛い出来事をありのままに報告する勇気もなかった。

また、説明するだけの根拠を示すことができないと信じてもらえないと子供心に思っていたのかもしれない。

そんなこといってはいけない、バカなこと言ってないで学校に行きなさい。

そんなことを言われるのが怖かったのだと思う。

現にそういう風に子供を送り出す親は多いだろうし、私の親も私を軽く窘めただろう。


それから私は学校で起きた事柄を口に出せなくなり、学校に行きたくない理由を告げられないまま、毎朝行きたくないと騒いでいた。


理解されたいという甘えと、学校に行かなくても肯定してもらえることを望んでいたのだろう。

しかし親も人間なのだから、優しく聞いても強く叱りつけてもいうことを聞かなければ途方にくれるしかない。

そんなことは当時の私にはわからないし、かといって突き放すように放置した方がいいということも、その場ではわからない。

それにその対処法は子供によって、親によって、やり方によっては決定的な溝を生むだろうから、推奨もできないけれど。


そんな感じでずっと対立していた私と母だったが、もともと手塩にかけて育てられていた私だったので、母が途方にくれて父や姉に泣き言を言っているのを、相談しているのを聞いてから、自分を責めるようになった。


勿論、初めは母に向き合って欲しかった、理解してほしいというのが反抗期のきっかけだったので、告げ口している、もしくはなぜ私以外の人間に尋ねるの、と笑ってしまう腹の立て方をしていたけれど、だんだんと、これは私のせいなのだと思うようになった。


何故こうなってしまったのか、何故正しくできないのか、何故母を苦しめてしまうのか、けれどみんなと同じようにはできないし、嫌なことを耐え忍ぶだけの強さも私にはなかった。

中学生に上がる前、私は自分の腕を切った。


誰にも言えなかった、勿論母にも絶対に今でも言えないけれど、あれは私が私を罰するためにつけた傷だった。

母の望むような子供になれない、人として正しくできない、姉に軽蔑され父にも見放される自分に対する罰。

逃げているだけと言えばそれまでだし、自分と向き合う覚悟のない子供のしたことだ。

けれど私は確かにあの時の傷に救われた。


腕にある傷は今も治らない。

見る人は顔をしかめる。

けれどこれがなければ私は死んでいたか、あの日のままだったように思う。

だから私はこの傷を悩ましく思うことはあっても、消そうとか、後悔したことはない。

母が悲しむから言えないけれど。


だんだんと心の整理ができ、気のおける友人ができ、周りのクラスメイトも先生も、きちんとした関係を築けるようになった頃、私は惰性から学校に行きたくないことはあれど、嫌なことは嫌だと言えるようになっていたし、放っておけば自分でなんとかすると母も気づいたのか、前よりも穏やかな関係になった。

学校、という所に拘束されるのが嫌なほど私は家を好きで、家族に甘えていたのだろう。

それが過度な不登校のきっかけだったのかもしれない。

誰だって、暖かい布団から出て、人に詰られ他人と競争しなければならない場には出たくないだろう。


それをきちんと耐え、我慢できることが今の日本に求められるまともな人間なのだということも、学校というところはそれを作るべき場なのだともわかるが、今でも私はそれが本当に正しいかどうかわからないし、自分の子供に強制できるかもわからない。

けれど私が真っ当でないことは今も自覚あることではある。


そして大人になった今、私は必要以上に母に愛情を注ぐようになったように思う。

母の立場が、自分となんら変わらない、特別母という人間として生きてきたわけではないと理解できるからというのもあるが、あの日の私に、きちんと自分は愛されていたのだと分かってほしいからか、そう思いたいからか。


湊かなえさんの母性という本を読んで、愛情とは、母とは何かを考えた。